人生は奇想天外

奇想天外なできごとを何とか乗り越えてきた60代のおばちゃんの人生ブログ

別居の決意

関西へ来てから、祖母、両親、兄弟、と
家族8人の同居生活。

言葉も所々わからずに、最初は戸惑うばかり。

スーパーで「ねえちゃん」と呼ばれて
何か「いちゃもん」をつけられるのかと
ドキドキ。
後で、女性なら誰にでも「ねえちゃん」と
呼ぶ事を知った。

 

昔は今と違って封建的な感じがあって
私はよそ者。

ここに、早く馴染むためには
同じ言葉を話すようにならなければと思い

へんてこりんな「関西弁」ができあがった。

 

味付けも今までとは全く違う
和歌山産まれの祖母は朝から「茶がゆ

茶色の「おかゆさん」と呼ばれる食べ物は
暫く食べれなかったが、
夏に、細かく刻んだナスとキュウリのぬか漬けに
ショウガを混ぜ、お醤油をかけたお漬物と
食べると格別美味しいことを知った。

 

活きた「タコ」や「シャコ」は初めて見た。
自宅で調理するので、タコの脚が
熱い鍋からニュウーと出てきた時は恐ろしかった。

 

活きた「タチウオ」には歯があって
噛まれたこともあったが、
どれも新鮮な魚介類は、とても美味しかった。

 

とにかく家族8人の生活は、毎日ごはん作りや
掃除や洗濯に追われているような生活だった。

現在はおばあちゃんが孫の世話をする時代に
なったが、封建的な我が家では
子供を預けて遊びにいくことなどご法度だった。


1度、子供を寝かせて、私を気遣った夫と二人で
近所の喫茶店でお茶を飲んで帰ってきたら
子供が起きたと、母にひどく叱られた。

義母は父や夫や他人の前では優しく振舞うが
影ではかなりキツイタイプだ。

 

ただ、誕生日や記念日にはプレゼントをしてくれたり
お赤飯を炊いて祝ってくれた。オーダーの服や宝石など
20代の私にはあまりそぐわない物だったが
「買い与える」ことが好きなようだった。

 

夫も母には抵抗しない、
「がまんしてな」が夫の口癖のようになった。

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ある年の年末。雪の降る寒い日。

朝から家の大掃除をしていたが、少し風邪気味で
調子が悪かった。

 

母が「掃除終わったらお墓の掃除してきてな」という。
えっ雪が降ってるのに?と思ったが

逆らう術を知らなかった。

雪の積もったお墓を、渡されたタワシとタオルで
掃除し、花を替えてお参りして帰った。
いつもは、一人で墓参りなどしたことはない。
年末であっても、義母と子供達と一緒だ。

 

違うのは、今日はとても寒く雪が降っていた。

 

帰ってきたら「ドン」と掃除機を置かれ
「今日は忙しいさかいな」と息つくひまもなく
掃除機をかけ、そこから、スーパーへ買い物に行く。

 

ダイエーが歩いて行ける距離にあったが
とても、足取りは重かった。

 

買い物の途中で、床や周りがぐるぐると回り
立っていられなくなってきた。
やっとの思いで家に帰るなり、買い物袋を置いた
とたんにバッタリ倒れ込んでしまった。

 

気が付くと、父が一生懸命介抱してくれていた。
知らせを聞いて
帰ってきた夫が救急病院へ連れて行ってくれた。

 

風邪から髄膜炎を起こし、
死ぬかも知れないところまでいってしまっていた。

 

病院の先生から、もし大丈夫でも後遺症が残るかも
知れないと、夫は宣告されて驚いたと後になって知った。

 

不思議なことだが、1月1日になったとたんに快方へと向かう。


痛くて真っ暗だった眼球の奥が、少しずつ明るくなり
救われている感覚が、だんだん広がっていくような
不思議な体験だった。

 

まだ、寿命は尽きていなかったようだ。
実家には、知らせないで欲しいと夫に頼んだ。

心配してかけつけて来たら、説明のしようがない。

 

でも、あの時聞いた母の「この忙しい時に」という

投げかけるような言葉が、私に別居の決意をさせた。

このままではダメだとはっきり決意できた。

 

父の後押しもあって
近くに家を購入し、家族4人の生活が始まった。

 

まるで、天国のような自由な生活。

テレビも好きなだけ見れる
子供達と好きなだけ遊んで、好きな物が食べれる。
夫と二人の時間もできた。
お風呂も好きな時間に入ることができる。

 

そんな些細なことも、幸せに感じた。
32歳のことだった。