人生は奇想天外

奇想天外なできごとを何とか乗り越えてきた60代のおばちゃんの人生ブログ

愛は人を強くする

女性は愛を得ると強くなる

愛を奪われれば、弱くなる

 

築き上げたものを、失ってしまうかも知れない
恐さなのか、信じていたものが無くなる恐さなのか
得体の知れない恐さがあった。

夫が傍にいない。
目に見えない。だから余計に恐い。

 

私は妻でありながら、とても弱くなっていった。
彼女は愛を得た、強さがあった。

 

彼は自分のものだ。
自分のことを愛しているという強さ。

 

私は衰弱してしまっていた。

 

「何かをする」のが大変で
子供達の前で泣かないのが精一杯だった。
子供達にご飯を食べさせるのがやっとだった。

 

病院で薬を処方され
飲まずには、眠れない夜が続いた。

 

正直に言うと、この頃の生活の記憶があまりない。

 

私の実家に誰かが連絡したのか
父と母が家に来た。

 

父は夫と話しをしていたが
父は良くある男のきままな浮気と
思っていたらしく、夫と私に
「一緒に生活しなければいけないよ」と言った。

 

数日後、夫が戻ってきた。

 

私は夫が彼女と別れる決心をして
戻ってきたと思わされていた。

 

父の用意した手切れ金を彼女も受け取り、納得して
別れたと、勘違いしてしまった。

(彼女は、店の改装費に手切れ金を使ってしまったそうだ。)

 別れたはずの彼女は色々な手を使って、
自分の存在を知らせてきた。

 

留守番電話には、ミッキーマウスのオルゴールが流れ
お腹の子供の存在を印象付けた。

 

無言電話は、何度も何度もかかってきたし
口紅や片方のイヤリングが助手席に落ちている。

 

 それでも、夫は何度か私達家族を旅行に連れて
行ったりしていたが、その度に彼女から電話があり
夫は動揺していた。

 

そんな生活が1年位続いたが、私の心も身体も
衰弱していて、

心配していた両親が「帰ってきてもいい」と言ってくれた。

私は子供達と実家に帰った。

 

もう、限界だった。

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「離婚しよう」という夫の言葉はなく、
又、私もそのつもりのない別居が始まった。

 

帰っていったときの、父の目をつぶったままの「うなずき」が 
全てを許してくれているようで、涙が出た。

 

実家は、商売をしているので賑やかだ。

家族も、従業員の人達も、取引先の人達も
近所の人も、親戚の叔父や叔母も、友人も全てが
ただ温かかった。

 

「愛」に包まれて
自分を愛してくれる人が、こんなにもいることに
改めて気付き、その愛が何よりも私を立ち直らせてくれた。

 

愛は人を強くする。
子供達への愛は、いつもいつも注ぐことを
忘れてはいけないと、強く思った。

 

子供達を中心に考えることができるようになって
笑うことが、できるようになった。

母が「そうやって明るく過ごしていれば、良いこともあるよ」と
言ってくれた。

 

半年後、子供と3人で別に住居を構え
私も広告代理店でアルバイトをしながら、生活が始まる。

 

夫の事は、心の大半を相変わらず占めていたが
「痛さ」は、ましになっていた。
夫が今どこにいるのか気にせず過ごせたからだ。

彼女は夫が離婚しないことへの苛立ちか、
「私は男の子を産んでみせます。」
「もう、諦めたらどうですか」など
嫌がらせの電話がかかってきた。

 

新しい家の電話番号は夫と両親しか知らない。
また、夫に対しての怒りと猜疑心がつのる。

 

いくら彼女を愛していても
何故、夫はこんなにも軽薄になれるのだろう。

 

夫に会いたくてたまらない気持ちと
嫌気が混雑していた。

 

私は、子供達とただ平穏でいたかった・・・。

 

 

 

 

衝撃の事実

当時の日本は景気も安定していて
戦後の右肩上がりの成長が続いていた。


土地は買っておけば、いずれ高くなるという神話も
人々は疑うこともなく、良く働き貯蓄をし
子供には学力をつけさせ、良い所に就職することを
第一とするような風潮にあった。


夫の会社も時代の波に乗り、順調だったようで
夫が「付き合い」で遅くなる日が多くなっていった。

 

交友関係も青年会の付き合いとかで
あちらこちらに遊びに行くようになっていき
「午前様」と言われる、午前2時、3時頃の
帰宅が多くなっていった。

 

勿論、何でこんなに遅いのか聞いたことは
あるが、「付き合いだから仕方ない」という
夫の言葉を信じることしか、その頃の私には
手だてがなかった。

 

私は家のローンの助けになればと思い
小さな塾を始めていて、時代背景の
後押しもあって繁盛していたので
私も忙しく、
夫の「午前様」も、当たり前のようになり
時がながれて行った。

 

ただ、思えば
私の中で夫に対しての不満が沸々と芽生えていて
少し苛立ちを感じていた。

 

その苛立ちは、やはり夫の帰りが「午前様」であり
子供達と3人で過ごす時間ばかりになっている
せいだと思っていたが、妻の第6感が
夫を疑い始めていたように思う。

 

ただ、夫は休みの日には、家族サービスを怠らず
楽しそうにしていたし、夫婦の営みもあったので
不満も解消できていた。

 

私は子供達の行事や、塾の経営に
ただ、一生懸命な日々を送っていった。

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その日も、家族で仲良くお風呂に入り
上がってきたところに

電話が鳴った・・・・

 

先に出た夫が電話を取ったが、何か様子がおかしい。

何故そんな行動をとったのか

自分でもわからないが、私は夫から電話機を取り

耳を当てると、向こうから勢いよく話す

女性の声が聴こえた。

「あかんて!」と叫ぶような夫の声と共に
電話が切れた。

 

暫く。何が起きているかわからず・・・
頭が整理できない。

 

「どういうことなのか」
冷静に聴くには、時間がかかった。

 

彼女と付き合ってもう、1年近くなること
クラブのママをやっていること

 

今、彼女が妊娠していること
を聴かされる。・・・・・

 

衝撃の事実に、何をどうしていいのかわからず

近くにあったのであろうカセットテープだけを持ち

車に乗り込んだ。

何故、カセットテープを手にしたのか
自分でも、後になってもよくわからないが手に持っていた。

1人になって、考えてみたかった。

 

何処へ向かうかもわからず、とにかく車を走らせて
いたが、手に持っていたカセットテープをかけてみた。
そこから、流れてくるのは音楽ではなかった。

 

誰かの会話?えっ!私の声???

 

友人と楽しくおしゃべりしている私の電話の声!
何故?これ何?

 

急に、正気に戻った。

自分の声を聞いて「現実」に引き戻され
ただ、何故このテープに自分の会話が録音されているのかの
1点が、「真実」だった。

車をUターンして、我が家へ帰る。
身体が火照って興奮していて
勢いよく、ドアを開けると

 

そこには、夫の姿は無く
義父が子供達を寝かせ1人で待っていた。

 

義父は私を一生懸命なだめようとしていたが
義父の話も耳に届いては来なかった。

今日は、取り合えず息子は実家に帰したのだ。
義父は時間が必要だと言っていた。

 

義父の静止も聴かず、私は車を走らせて
夫の実家へ向かった。

 

そこには、ぶ厚い布団に寝ている主人の姿があった。
何だか「情けなさ」と「怒り」がこみ上げる。

 

その、義母が敷いたであろう分厚い布団に
守られている夫の姿に
腹が立って自分が情けなくて仕方なかった。

無理やり夫を起こし、このテープは何なのかを聞いた。

 

「真実」は
私の家の電話に盗聴器が仕掛けられていた。・・・
夫と彼女が仕掛けた盗聴器だった。

 

返答のしようもなく無言で、実家を後にした。

 

帰りの車の中で、初めて涙が出た。
大声で泣き叫んだ。

 

「体中が泣くこと」を生まれて初めて知った。


 

 

 

別居の決意

関西へ来てから、祖母、両親、兄弟、と
家族8人の同居生活。

言葉も所々わからずに、最初は戸惑うばかり。

スーパーで「ねえちゃん」と呼ばれて
何か「いちゃもん」をつけられるのかと
ドキドキ。
後で、女性なら誰にでも「ねえちゃん」と
呼ぶ事を知った。

 

昔は今と違って封建的な感じがあって
私はよそ者。

ここに、早く馴染むためには
同じ言葉を話すようにならなければと思い

へんてこりんな「関西弁」ができあがった。

 

味付けも今までとは全く違う
和歌山産まれの祖母は朝から「茶がゆ

茶色の「おかゆさん」と呼ばれる食べ物は
暫く食べれなかったが、
夏に、細かく刻んだナスとキュウリのぬか漬けに
ショウガを混ぜ、お醤油をかけたお漬物と
食べると格別美味しいことを知った。

 

活きた「タコ」や「シャコ」は初めて見た。
自宅で調理するので、タコの脚が
熱い鍋からニュウーと出てきた時は恐ろしかった。

 

活きた「タチウオ」には歯があって
噛まれたこともあったが、
どれも新鮮な魚介類は、とても美味しかった。

 

とにかく家族8人の生活は、毎日ごはん作りや
掃除や洗濯に追われているような生活だった。

現在はおばあちゃんが孫の世話をする時代に
なったが、封建的な我が家では
子供を預けて遊びにいくことなどご法度だった。


1度、子供を寝かせて、私を気遣った夫と二人で
近所の喫茶店でお茶を飲んで帰ってきたら
子供が起きたと、母にひどく叱られた。

義母は父や夫や他人の前では優しく振舞うが
影ではかなりキツイタイプだ。

 

ただ、誕生日や記念日にはプレゼントをしてくれたり
お赤飯を炊いて祝ってくれた。オーダーの服や宝石など
20代の私にはあまりそぐわない物だったが
「買い与える」ことが好きなようだった。

 

夫も母には抵抗しない、
「がまんしてな」が夫の口癖のようになった。

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ある年の年末。雪の降る寒い日。

朝から家の大掃除をしていたが、少し風邪気味で
調子が悪かった。

 

母が「掃除終わったらお墓の掃除してきてな」という。
えっ雪が降ってるのに?と思ったが

逆らう術を知らなかった。

雪の積もったお墓を、渡されたタワシとタオルで
掃除し、花を替えてお参りして帰った。
いつもは、一人で墓参りなどしたことはない。
年末であっても、義母と子供達と一緒だ。

 

違うのは、今日はとても寒く雪が降っていた。

 

帰ってきたら「ドン」と掃除機を置かれ
「今日は忙しいさかいな」と息つくひまもなく
掃除機をかけ、そこから、スーパーへ買い物に行く。

 

ダイエーが歩いて行ける距離にあったが
とても、足取りは重かった。

 

買い物の途中で、床や周りがぐるぐると回り
立っていられなくなってきた。
やっとの思いで家に帰るなり、買い物袋を置いた
とたんにバッタリ倒れ込んでしまった。

 

気が付くと、父が一生懸命介抱してくれていた。
知らせを聞いて
帰ってきた夫が救急病院へ連れて行ってくれた。

 

風邪から髄膜炎を起こし、
死ぬかも知れないところまでいってしまっていた。

 

病院の先生から、もし大丈夫でも後遺症が残るかも
知れないと、夫は宣告されて驚いたと後になって知った。

 

不思議なことだが、1月1日になったとたんに快方へと向かう。


痛くて真っ暗だった眼球の奥が、少しずつ明るくなり
救われている感覚が、だんだん広がっていくような
不思議な体験だった。

 

まだ、寿命は尽きていなかったようだ。
実家には、知らせないで欲しいと夫に頼んだ。

心配してかけつけて来たら、説明のしようがない。

 

でも、あの時聞いた母の「この忙しい時に」という

投げかけるような言葉が、私に別居の決意をさせた。

このままではダメだとはっきり決意できた。

 

父の後押しもあって
近くに家を購入し、家族4人の生活が始まった。

 

まるで、天国のような自由な生活。

テレビも好きなだけ見れる
子供達と好きなだけ遊んで、好きな物が食べれる。
夫と二人の時間もできた。
お風呂も好きな時間に入ることができる。

 

そんな些細なことも、幸せに感じた。
32歳のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

人生は奇想天外/ プロローグ 

初めまして 白井 花 です

 

自分の人生には起こらないだろうと思っていた、
思いもよらない奇抜なことを
奇想天外といいます

 

人によって奇想天外の大小はあれ
その渦中にいる時は
とんでもない出来事なわけです

 

そんな時、誰かの一言が助けになったり
誰かに貰った本が、人生を変えたりして

そこから、抜け出すきっかけに
なることがあります

 

花も、60代になり
いろいろな奇想天外なできごとを
乗り越えて
今は落ち着いた平和な生活を過ごしています

 

「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と

あるドラマでいっていましたが

試練と思われる現象も、自分に起因があると
思えば何とか切り抜けられると思うように
なりました

 

この記事は、花という女性の回顧録?を
客観的に綴っていきたいと思っています

 

もし、誰かの目に留まり
同じように奇想天外な出来事に
出会っていたら、

「大丈夫!」
そんなメッセージを受け取ってもらえたら
嬉しいです

 

では、花の物語

 

 

花は呉服問屋の家に産まれ
三人兄弟の長女、一人娘

 

家には、仕入れ先の商人や銀行の人などが
出入りして、賑やかな環境で育ちました

 

幼い頃は、引っ込み思案の恥ずかしがり屋
顔良しのぽっちゃり型

だけど、だんだん正義感が強くなり
泣き虫な弟が泣かされて帰ってくると
やり返しに行ったりする
そんな、性格も持ち合わせています

 

父に言わせると
「花が男の子だったらなぁ」と
ずっと言っていましたので
男まさりなところがあったのかもしれません

 

 

18歳の学生時代、
友人の婚約パーティーで元夫と知り合い
5年の年月を経て結婚

 

子供を2人を授かり
社宅で平凡な楽しい暮らしをしていました

 

夫の父が会社を経営していたため
勤務していた会社を辞めて
夫の故郷である関西へ引っ越しました


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人生最良の日

 夫の実家の近くに、住まい
家族4人、お休みの日にはキャンプに行ったり
遊びに出かけて、楽しく過ごしていたつもりでした

 

慣れない生活習慣の違いや
沢山の親戚、両親や家族への気苦労は
あったものの
新しい友人や、楽しい仲間ができて
幸せだと、感じていました

 

あの、電話が鳴るまでは・・・。